私の悪い癖は、人を判断する場合、その人のことをよく調べもしないで第一印象というか自分の第6感で即断してしまう傾向があることである。
一番よい例が矢沢永吉「永ちゃん」のことを、彼の曲を聴いたこともないのに、格好だけの”成り上がりロックンローラー“で、彼のフアン(私の女房も含めて)も単なるミーハーだと決め付けていたことで、もうだいぶ前になるが、テレビの主題歌「アリよさらば」を聞いて「アレ・・永ちゃんて意外と歌うまいなぁー」となって、他の曲を聴いてみると、イヤァー完全にはまってしまいました。
何でもっと早くに「永ちゃん」のすごさに気付かなかったのか?他人が良いというものにはかえって反発する”へそ曲がり“な性格が招いたこととはいえ、ものすごく損をした気分に陥ったのを覚えている。
川上未映子という30そこそこのミュージシャン上がりの女性が、昨年138回の芥川賞を受賞したというニュースを聞いたときも、本の売れ行きを伸ばしたい出版社と選考委員が話題性優先で、変わった経歴の芸術かぶれの若い娘の難解な言葉遊びをさもすごい才能であるがごとく持ち上げているのだろうと思っていた。
ところが今日買った某週刊誌に書いてある彼女の連載記事を読んで、私はいっぺんに彼女のフアンになってしまった。
それは、先日第1回目の公判が開かれた、土浦で起こった無差別殺傷事件の犯人金川被告に関する記事であるが、週刊誌の記事をそのまま掲載すると、
「動機について彼は『まず死にたい、そのための殺人だった』と述べていて『死刑は自分にとって都合のいい制度』なので、それを利用してこんな事件を起こしたとこういうわけだ。
躊躇や同情はないのかといった質問に対しては『ライオンがシマウマを殺すとき、そんなこと思いますか』とか『善悪は人間が作り出した概念。俺には通用しない』とか、なるほど彼の発言のはしばしには道徳的な感情とは切り離した『論理的思考っぽいものをしてる俺』がかいま見えてそれだけでも不快感は十分だけれど、『社会が自分を認めてくれない』『むしゃくしゃして』といった理由の無差別殺人とは少しだけ違うような印象があり、動機についてはどこまで考えたのか?と不謹慎ながら期待した部分もあったのだが、他誌で掲載されていた百問百答というのを読んだらただの馬鹿だった。
哲学的思考は倫理学のそれとは違って、好き嫌いや情念は関係なく、そうとしか考えられないという意味での『真理』を目指す運動で、それゆえに時には社会道徳と相反する価値観を導くことももちろんある。
だからこそこんな風に、自分の頭で問いを立てて考えを進めていくセンスが決定的に欠如しながら、単に調子だけはいいという人を勢いづけ、実は論理的思考とは全く関係のない『情念の部分』に都合よく機能してしまう側面もある。
残念だがこれも事実なので仕方がない。
『(自分は)常識にとらわれていない。善悪自体がない』。
言っていることは理解できるけれども、本当は存在しない常識や善悪が何故存在するのか、そしてそれに従うとはどういうことか、なぜ従えるときとそうでないときがあるのか、などなど善悪をめぐるおそろしい問題はそこから先にてんこ盛りであるのに、そこには行かないし、行けない。
実感として、人を殺せる側から語られる言葉に耳を傾ける価値はないように思えてしまう。
人を殺すことはある意味で単純なことなのだ。
できてしまうことなのだ。
こういった殺人犯が抱えているであろう、皆が知りたがる闇なんていうものは単に社会の捏造でもありえるわけで、人を殺せるような単純な思考回路しか持たない人に、感想や動機なんてもう聞かなくてもいいんじゃないのかという気にさえなる。
“彼は何故殺したか”、ではなく、“我々は何故殺せないか”という側面から語られる言葉も同じように準備するべきである。
世界のどこにも確固とした善悪がないことなんて、きょうび中学生でも知ってることなのに、本に書いてあったことを自分で考えたかのように錯覚して、自分だけが何かを知ってるように思い込んでいる彼には、『何でそんなに馬鹿なのか』『君はおめでたいほど単純な人間なのだよ』とそのことだけは伝えてやりたい気持ちが少しくらい、ないでもない。」
彼女の辛らつな言葉の暴力ともいえる激しい攻撃は、彼女が大学で哲学科を専攻していたことと、金川被告の愛読書(子供向けの哲学書)が彼女の愛読書でもあったことが原因と思われる。
自分が学んで深く突き詰めて考えてきたことが、殺人者の都合のいい“うすっぺらい”解釈に利用されることに我慢がならなかったのであろう。
辛らつな言葉のうらに、他のいいかげんな評論家やコメンテーターにない“殺人者と真正面から向かい合おうとする”強い意思がのぞいている。
そう“殺人者をヒーローにしては絶対いけない”という強い意思がそこにある。
私が川上未映子に惚れた理由である。